昔すきだったもの
幼い頃の自分は、工作が大好きだった。
ダンボールやお菓子の空き箱を見つけては、セロテープとはさみを使ってロボットやよくわからないものをよく作っていた。
その当時は、目的のものがあったから工作をしていたのではなく、工作という行為自体に喜びを感じていた気がする。
ある時、通っていた幼稚園でバザーがあった。幼稚園児にとって、外部の人間が多く訪れる機会はそうそうあるものではないので、相当ワクワクしていた。
当時の先生は、そのバザーに向けてみんなでお化け屋敷をやろうという企画を立てた。僕はそのお化け屋敷でお化けをつくるミッションを先生から与えられた。
よく工作を一緒に作っていた、I君とそれぞれ一体ずつお化けを作ることにした。
僕は、すぐに一つ目コウモリを作ることを考えていた。何故かすぐにそのアイデアが浮かんだのである。
そのアイデアが頭に浮かんでからは、夢中でそのコウモリを作った。
丸めた新聞紙に黒ビニールを巻きつけ、羽には針金を通してかつ背中に紐がつけられるようになっているので、空中に飛ばすようにも出来るというもので、いま考えてもなかなかの力作である。
僕は完成したコウモリに非常に満足していたし、自信を持っていた。
バザー当日。お化け屋敷の舞台となる教室の窓は黒いカーテンで覆われ、幼稚園児たちが作った作品がところせましと並んでいた。
僕の作ったコウモリは、お化け屋敷の入り口に配置されることになった。
天井からぶら下がっている一つ目コウモリの姿は、いまでもよく覚えている。
お客さんが来ると、はじっこに隠れた自分が紐を引っ張り、コウモリを上下させて驚かすという寸法だ。
僕は、自分の作ったコウモリで人を驚かせるのが楽しくてしょうがなかったし、自尊心みたいなものが満たされた。
でも、しばらくすると、男の先生が僕にこう言った。
「針金があぶないから、天井からおろして手でもって」
そう言われると、自分のなかでこのコウモリが強く否定されたような気分になって、その日はもう全然楽しくなくなってしまったのを覚えている。
大人の何気ない一言が、子供の心に深い傷を負わせてしまうこともあるのだと振り返って思う。
まあ、要するに子供の頃は、何かを作るという行為が大好きだったという話。
それからちょっと大きくなると、プラモデルにはまった。とくにエヴァ初号機のプラモデルにはしびれた。無我夢中で作って、夕飯を食べるのも忘れてしまうくらい熱中した。
いつから僕は、何かを作ることをやめてしまったのだろうか。
たぶん、受験をするために塾に通うようになってからじゃないか。
それからだんだん、自分の作ったものよりも、他人の作ったすごいものに興味を惹かれていく。
とくにアニメが大好きだった。
アニメをたくさんたくさん見た事自体に後悔はないし、むしろその後の人生観に大きな影響を与えてくれたものもあるから感謝もしている。
でも、20歳をすぎて何かが虚しくなっていった。所詮、自分は他人のつくったものを消費しているだけの存在なんじゃないか。
そんな思いにあえて気づかないふりをして、就職活動をする頃には、自分が本当に何に興味があって何をしたら自分は喜ぶのかということがわからなかくなっていた。
そして、いま、僕は昔のことを思い出すようになってきたというのは、昔の感情とか感覚をもう一度味わいたいという願いがあるからなんじゃないだろうか。
自分のことって実は全然わからないものだ。
その願いっていうのは、自分の作った何かで誰かが喜んだり、反応を返してくれたりそういうことがもう一度したいってことなんじゃないか。
最近、そういうことをよく思う。そして、実行なきゃと思う。